太平洋戦争末期に本土最南端の特別攻撃隊(特攻)の出撃地となった事でも有名な知覧。今では鉄道が無く、交通アクセスが難しい場所になってしまいましたが、ここには災害で散ってしまった悲運の鉄路が存在しました。

知覧の中心街から歩くこと1.2km、知覧駅跡に到着。鹿児島交通がバスターミナルとしてそのまま用地を使っています。
実は先ほどの写真に「用事」が写っていますが、後にしてとりあえずは探索をすることに。
知覧バス停は車庫の中にあり、ターミナル駅感が残っていて素晴らしいです。
先へ進みます。駅の用地は鹿交のターミナルと薬局に転用されています。
線路が目指す先。


境界柱を過ぎると…
廃線跡!
道路の横にしっかりと路盤跡がありました。
歩くとすぐに麓川(ふもとがわ)にぶつかります。
振り返って一枚。
道路の橋の様子。往時は鉄道橋との並行が見られたはずです。
鉄道橋の麓川橋梁は現存していませんが…
って…ああ!!
橋台のうち、知覧側の台が奇跡的に残っていました。
橋台の上に立ってみます。
コンクリート製ですが良い貫禄のある一台です。
橋台から先を眺めます。路盤の雰囲気をより強く感じられました。

ちなみに橋台の手前には枕木が柵代わりに立てられていました。近場に鉄道は無いので知覧線由来の物と考えても問題無さそうです。
ここから先、枕崎線の合流点である阿多駅まで16km、鉄路が延びていました。1km程先の城ヶ崎駅までは先の交差点から合流してくる県道27号頴娃川辺線と寄り添いながら進んでいます。
って「目的」が向こうから来てしまったぁ!!
先ほど車庫で眠っていた目的の車が出庫してきてしまいました。わざわざ見に来た理由は、この車両は排ガス規制P-の車で、路線バスの中ではかなりの長寿である28年前の車両であるから。中古車両を含め、比較的車両を永く使う鹿児島交通の中でも最古参級(現役の1990年式は3台)の路線車で、トップドアに貸切兼用のハイバックシート仕様、エアサス付きの高出力車両といった贅沢仕様です。


続いて奥のキュービックは前後扉、元山陽電気鉄道バスのようです。
お隣には私の好物の西工が。全体の写真ではありませんが割と貴重な日野×西工です。これは元神戸市交通局だそう。

またまた元神戸市交です。上記のバスとは尺が違うようですが、私には目測でそれを認識する力はありません…。
少し移動した先では生え抜き車のジャーニーが来ました。なんと運転士さんがピースサインで撮影に応じて下さいました。(その後しばらくお話も…)

帰り道ついでに武家屋敷を散策した後、知覧を象徴するものの一つである平和記念館を見学した後に帰路へ着きました。
探索終了。
本記事(連載の場合全編)での参考文献など(敬称略):
二度も豪雨を受けた鉄道会社
薩摩半島の内陸に位置する町、知覧。古くから城下町として栄えていたこの地には陸軍の飛行場が置かれ、南薩摩の要衝として隆盛を見せました。じきに旅客輸送にも、軍事輸送にも適することから鉄道開通の機運はすぐに高まり、1923(大正12)年に地元資本により薩南中央鉄道株式会社が設立され、1927(昭和2)年には南薩鉄道の阿多駅から分岐する形で薩摩川辺までが開業しました。
ちなみに、この線を建設した当初は南薩鉄道の終点の加世田駅から分岐する予定だったそうですが、旅客や貨物の拠点であったことから地元の反対に遭い、その一方で加世田の1つ隣の阿多駅は、加世田との距離が2.3kmしかなく、将来的(※1)に廃止される恐れがあったため、分岐駅にすることで廃駅を阻止したい阿多の住民の誘致があったため阿多から分岐した…という噂がありました。(※2)
(※1:当時、南薩鉄道が国鉄に買収されるという噂があったため。国鉄の駅間平均がおよそ5~7kmだった当時、駅間2kmは当時の地方鉄道としてはかなり短い。)
(※2加世田駅から知覧方面へ分岐すると「万之瀬川」という河川を渡る必要があるが、加世田~阿多で万之瀬川を渡ってから枕崎線から分岐すれば2つ架橋する必要はないので、コストの掛かる架橋を避けるためであった可能性もあります。というより定説はこちらです。)
(※2加世田駅から知覧方面へ分岐すると「万之瀬川」という河川を渡る必要があるが、加世田~阿多で万之瀬川を渡ってから枕崎線から分岐すれば2つ架橋する必要はないので、コストの掛かる架橋を避けるためであった可能性もあります。というより定説はこちらです。)
その後1930(昭和5)年に薩摩川辺から知覧間が開業し全通、戦中の1943(昭和18)年に南薩鉄道に吸収合併され同社の知覧線となるも廃止されることなく営業を続けました。(恐らく利用者の中には日本各地から集まった若者が知覧まで乗車し、帰らぬ人となったこともあるでしょう。)戦後の1964(昭和39)年には南薩鉄道本体が三州自動車と合併し、鹿児島交通に名前を改め、運行が続くと思われましたが、翌1965(昭和40)年7月、水害が発生したため全線不通となり、復旧する力は残されていなかった知覧線は4ヶ月後の11月15日に廃止されました。また鹿児島交通線本体の枕崎線も19年後の1983(昭和58)年に再び起きた豪雨災害のため全線不通となり、一部区間で運行再開するも耐えきれず、最終的に翌1984(昭和59)をもって全線廃止となりました。一方会社は健在で、県下最大級のバス会社として今でも営業しています。
今もターミナルの役割を果たす

知覧の中心街から歩くこと1.2km、知覧駅跡に到着。鹿児島交通がバスターミナルとしてそのまま用地を使っています。



先へ進みます。駅の用地は鹿交のターミナルと薬局に転用されています。

線路が目指す先。

それらしい駐車場の跡地が出てきました。

交差点を渡り…

境界柱を過ぎると…

廃線跡!

道路の横にしっかりと路盤跡がありました。

歩くとすぐに麓川(ふもとがわ)にぶつかります。

振り返って一枚。

道路の橋の様子。往時は鉄道橋との並行が見られたはずです。

鉄道橋の麓川橋梁は現存していませんが…

って…ああ!!

橋台のうち、知覧側の台が奇跡的に残っていました。

橋台の上に立ってみます。

コンクリート製ですが良い貫禄のある一台です。

橋台から先を眺めます。路盤の雰囲気をより強く感じられました。

ちなみに橋台の手前には枕木が柵代わりに立てられていました。近場に鉄道は無いので知覧線由来の物と考えても問題無さそうです。

ここから先には隧道もあるそうで、余裕があれば全線探索したかった所ですが、本来の目的を果たすために戻ります。

先ほど車庫で眠っていた目的の車が出庫してきてしまいました。わざわざ見に来た理由は、この車両は排ガス規制P-の車で、路線バスの中ではかなりの長寿である28年前の車両であるから。中古車両を含め、比較的車両を永く使う鹿児島交通の中でも最古参級(現役の1990年式は3台)の路線車で、トップドアに貸切兼用のハイバックシート仕様、エアサス付きの高出力車両といった贅沢仕様です。

最盛期には10台在籍しましたが、今では2台しか居ないこの車、(しかもこの「顔」は1台のみ)車庫でじっくり車両を見たかった気持ちもありますが、元気に活躍している姿を収められたので良しとします。
(鹿児島22き・253 三菱ふそうエアロスターM P-MP618MT改(1990年式))


気を取り直して車庫へ向かい、一声掛けてから中へお邪魔すると、元京成バスの車両が偶然出迎えてくれました。(鹿児島200か 18-11 三菱ふそうエアロミディ KK-MK23HJ(2002年式))

入口に居たバスは元国際興業の車、主に埼玉を走っていました。(ピンボケ…)
(鹿児島200か・897 いすゞキュービック U-LV324L改(1995年式))
続いて奥のキュービックは前後扉、元山陽電気鉄道バスのようです。
(鹿児島200か 11-74 いすゞキュービック KC-LV280L(1996年式))

お隣には私の好物の西工が。全体の写真ではありませんが割と貴重な日野×西工です。これは元神戸市交通局だそう。
(鹿児島200か 16-65 日野/西工96MC(B-2) KC-HU3KLCA(2000年式))

これまた元神戸市交通局のバス。兵庫県民のバス好きが喜びそうなラインナップです。
(鹿児島200か 12-97 いすゞキュービック KC-LV280L(1997年式))

またまた元神戸市交です。上記のバスとは尺が違うようですが、私には目測でそれを認識する力はありません…。
(鹿児島200か 16-47 いすゞキュービック KC-LV280N(2000年式))

少し移動した先では生え抜き車のジャーニーが来ました。なんと運転士さんがピースサインで撮影に応じて下さいました。(その後しばらくお話も…)
(鹿児島22き 10-29 いすゞジャーニー KC-LR233J(1999年式))

知覧の町中では富士重車を捕捉。
(鹿児島22き・719 日産ディーゼル/富士 U-UA510LAN(1994年式))
帰り道ついでに武家屋敷を散策した後、知覧を象徴するものの一つである平和記念館を見学した後に帰路へ着きました。
探索終了。
本記事(連載の場合全編)での参考文献など(敬称略):
・宮脇俊三「鉄道廃線跡を歩く」(JTBキャンブックス)
・今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
・今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
写真:特筆事項が無いものは本記事中(連載の場合全編)全て筆者/同行者による撮影
執筆:三島 慶幸
執筆:三島 慶幸
コメント