福島県の太平洋沿いを走る常磐線。海辺に迫り出た大小様々な丘陵を越えるためのトンネルが多数掘られました。

日本鉄道から交流電化まで

 常磐線は、1889(明治22)年に開業した水戸鉄道の水戸~小山間のうち、現在の常磐線にあたる区間を発祥とします。3年後に水戸鉄道はその全線を日本鉄道に譲渡し、同鉄道の水戸線となると、その後1901(明治34)年までに日本鉄道が開業させた「土浦線(田端~友部)」と水戸線の友部~水戸間・「磐城線(水戸~岩沼)」などと統合され、まとめて「海岸線」と呼称されるようになりました。これが現在の常磐線のルーツです。その後1905(明治38)年までにはおおむね現在のルートが完成、翌年には日本鉄道が丸ごと国有化され、国有鉄道線路名称制定後に初めて「常磐線」という名前が与えられました。
 …さて時代は飛んで1961(昭和36)年、常磐線ではこの年に初めて交流方式による電化(※)が取手~勝田間において行われ、以降6年の歳月を掛けながら取手以北の全線が交流電化されました。この時、海岸沿いに数多くの丘陵地を擁す福島県内の「浜通り」において、開業時に建設された多くのトンネルを未だに利用して越えていたことが交流電化の障害となってしまうことから、この区間にある全てのトンネルを新規に掘り直してしまいました。放棄された旧トンネルの本数は20本以上存在すると推定され、現在でも明治からの役目を終えた隧道が多数眠っています。この区間は2011年に東日本大震災の被害を大きく受け、近隣の福島第一原発の事故の影響などから7年経った今でも全線復旧に至っていない、立入さえも許されていない場所があるような状況ではありますが、今回はそんな隧道のうちの1本、「岩迫隧道」を探索しました。

(※)取手以北で交流電化を採用した理由はあまりにも有名すぎるのでここでは割愛。

旧線からレンガ隧道へ

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(いわき200 か・574 いすゞガーラⅠ KC-LV781R1(2000年式))

 富岡駅まで電車を乗り継ぎ、ここから先の帰宅困難区域・未復旧区間を代行バスを利用し越えていきます。代行バスは「浜通り交通」という事業者が担当。震災や原発事故で、観光バス会社としての仕事を失ってしまった浜通り交通は現在、原発作業員(福島第一原発の廃炉作業に従事する作業員なども含んでいた)の送迎をメインに事業を展開しています。2015年から常磐線のJR代行バス運行を委託され、その運行に当たってJRバス関東から移籍してきたいすゞガーラⅠ(2台移籍)が、カラーリングもそのままに専用車として使用されています。運転士やガイドの方々はとても親切で気さくでしたが、走行中の窓開閉は厳禁で、備え付きのトイレも非常時のみと制限されている所などに未だに人が帰ることが許されていない帰宅困難区域の現実を突きつけられたように感じました。
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また車内にはこのような記載がしっかりとなされていました。(撮影した帰宅困難区域の車窓画像の公開は控えさせていただきます。)
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道路状況によって到着時刻が遅れるとも丁寧に案内されていましたが、そんな事になるはずも無くバスは定刻通り所要30分で浪江駅に到着。改札に入り簡易通路を抜けて仙台行きの電車に乗り継ぎました。
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10分程度の乗車で小高駅に到着。
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小高駅には貴重な「長手積み」のレンガ倉庫(危険品庫・油庫)が震災に耐えて今でも残っています。
(実は本来コレの訪問・見学がメインで小高駅で降りました。)
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各駅に線量計が置いてあります。気にしすぎてもどうしようも無いものではありますが、やはり他よりは気持ち高めです。(この程度の自然線量の土地は世界中にあるようですが)
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時刻表とにらめっこします。私がここに来たのは12:30発の仙台行き、仙台へ抜けずに帰投するには13:53発の浪江行きで戻る必要があります。私に与えられた時間は1時間20分。この時間で探索を完遂させる必要があります。
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唯一食料が売っていた駅舎内の自販機で購入したパンを胃に押し込んで出発。(12:41)
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小高の町を線路に沿って北上するとすぐに現:岩迫隧道が見えてきます。
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小高川を渡橋。(12:52)
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真っすぐトンネルに向かうはずが、川の先のガーダの横に妙な物を発見したので寄り道。
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おそらく電化によるトンネル付替えに合わせて廃止されたであろう旧橋梁の橋台が残存していました。
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初代:小高川ガード?(残存は橋台のみ)
施工年:1898年(明治31年)以前←同区間の開業年
所属・管轄:日本鉄道→日本国有鉄道
使用終了年:1967年(昭和42年)
使用終了理由:電化時による線路付け替え(推定)
経年:120年・実働69年
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橋台の観察を済ませ、隧道の近くまで伸びている農道を進んでいきます。(12:55)
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しばらく進むと線路と農道が接近したところで築堤に上がる通路が唐突に現れます。柵の横を通って…
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旧路盤到達!(12:58)
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入ってすぐの一か所には枕木が埋まっていました。
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旧線を進んでいきます…があまりにも現在線と近すぎて罪悪感を覚えます。(実際、柵があったわけですし…)震災前であれば特急列車や貨物列車が多く走行していましたが、全線復旧が完了していない今では帰投予定の上り電車までほぼ間違いなく何も来ないはずですが、長居するのは忍びなく…走って進みました。
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身体にくっついてくる草むらの種子を大量に身に纏いながら、現:岩迫隧道の横を駆け抜け…(13:01)
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到達!

旧:岩迫トンネル(小高側坑口)
施工年:1898(明治31)年以前←同区間の開業年
材質:赤煉瓦
工法:山岳工法
断面形式:鉄作乙第4375号型断面、または近似した物
全長:198m
迫石・迫持:赤煉瓦・荒迫持
要石:確認不可
笠石:
扁額類:
帯石:
パラペット(胸壁
):有
ウイング(翼壁):有無(有れば詳細)
インバート(仰拱):無(推定)
所属・管轄:日本鉄道→日本国有鉄道
使用終了年:1967(昭和42)年
使用終了理由:電化時による付け替え
経年:120年・実働69年
特筆事項:坑口の意匠は圧巻。
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特徴はなんといっても階段上に組まれた翼壁と胸壁。列車で通過するだけの坑門にもかかわらず、良く考えられた意匠です。
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レンガの美しい段組みに惚れ惚れとしてしまいます。これを見られただけでも十分幸せになります。
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内壁は多少の剥離がありますが、崩壊の危険性はそこまで高くはなさそうです。地震の影響もほとんど感じさせない堅牢な造りです。
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SLの煙で真っ黒く煤けた洞内へと進みます。
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退避坑。人が見ないようなこういったところにもしっかりアーチが組まれている所に美とこだわりを感じます。(もっとも、そうしないとここから壁が崩落してしまうからなのですが…)
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カーブした先の出口が見え始めたあたりの退避坑はモルタルで補強されていました。
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あっという間に出口に到着。
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磐城太田側坑口。こちらは少しシンプルなデザイン。
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とはいえ翼壁の段差は健在。こちらは角度がついておりまさに「城壁」といった印象を受けます。
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向かって左側は現トンネルとくっついています。煉瓦の翼壁を崩すことなく現トンネルが寄り添うように造られており、こちらも好印象。
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旧線跡はこの先ですぐに現在線に合流します。DSCN7006
比較的遅めであった電化までの約70年間、蒸気機関車を毎日通していた事や、その機関車が沿線の常磐炭鉱(現:いわき周辺)で採掘されていた常磐炭という石炭を地産地消の形で使用していたためか、他の隧道より遥かに煤の汚れが強いです。常磐の石炭は、国内の石炭の中では特に純度が低く、燃焼効率が悪いことから燃焼時に大量の黒煙を上げて燃えたことで知られています。また常磐線では電化直前まで、マンモス機関車として有名なC62型蒸気機関車が使われていたことも少なからず影響を与えていそうです。
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行きに全く触れませんでしたが、道床にはバラストが健在で、目立った水没やぬかるみも無く非常に歩きやすいです。
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再び小高側の坑口に戻ってきました。
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隧道探索はこれで無事完了。小高側の坑口から再び小走りで元の道を戻ります。(13:11)
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旧線跡を離れ、農道に復帰。(13:14)
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行きには気が付きませんでしたが、小高川の橋のたもとにはこのような看板が立っていました。ここまで津波が登って来たと考えるだけで恐ろしいです。(13:18)
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小高駅に帰還(13:26)。電車に乗るまでに体にびっしりついた草木の種子を取るだけの時間が確保できました。あとは夕食予定地の我孫子駅のホームまで普通列車を8時間ほど乗り継ぐだけです。

探索終了。


本記事(連載の場合全編)での参考文献など(敬称略):
・今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
写真:特筆事項が無いものは本記事中(連載の場合全編)全て筆者/同行者による撮影
執筆:三島 慶幸