国鉄から引き継がれた第三セクターの天竜浜名湖鉄道が東海道線と結んでいる町、天竜二俣。そんな二俣町までにはかつて、開業わずか6年で廃止に追い込まれ消えて行った「幻の鉄道」がありました。

幻の鉄道・光明電気鉄道

 光明電気鉄道は、大正から昭和初期に起こった「高規格電車の地方鉄道ブーム」の中で設立された鉄道会社で、北遠(静岡県北部)の木材と、佐久間鉱山・久根鉱山からの鉱石を東海道まで輸送することを構想して設立されました。見るからに神々しい社名は、この鉄道が東海道本線の中泉駅(現:磐田駅)を起点とし、光明村船明(ふなぎら)までを結ぶという計画でスタートしたからだそうです。さらに会社の構想…というよりもはや“妄想”では、最新鋭の電車で信州や日本海側までを結ぶといった長大路線となる予定であったそうですが、その「光明」に影が見えたのは早くも開業前のことでした。なんと大口の輸送先として考えていた佐久間鉱山を経営する古河鉱業が、鉄道の終点が鉱山よりもかなり下流であることを理由にこの鉄道が鉱石輸送に向かないとして、その一切の出資を断ってしまったのです。
 開業前から採算が取れないことがほぼ確定してしまった光明電鉄。しかしそれでも夢を諦められなかったのであろうか、会社は建設を強行します。しかし事業内容に信頼が全く無くなってしまった手前資本金は全く集まらず、昭和恐慌の不景気や社内の内紛なども重なり工事は当初全く進みませんでした。同様の例(もはや「架空」と言っても良い延伸計画で大口を叩いて資金を集める、資本金が全く集まらないのに建設を強行する、社内や経営陣内で争いが起こる…etc)はこの時期の地方鉄道ブームにおいて頻発した事例で、未成線のままで潰えてしまった会社や、開業僅か数年で消えた鉄道は全国に複数存在しているため、「そのような時代」であったと言ってしまえばそうなのかもしれませんが、光明電気鉄道は東海道線も電化していないような時代においてある意味先を行き過ぎてしまっていたのかもしれません。
 ともかく鉄道自体は苦心の末に1928(昭和3)年に新中泉駅~神田公園前駅を部分開業、1930(昭和5)年に神田公園前~二俣町間を開業させ、全線19.8kmを営業する路線になりました。二俣町は古くから栄えている町であったので一定の輸送量を確保できたかに思えた光明電鉄でしたが、そんな開業区間でさえも早速バスに乗客を奪われてしまい、全く経営が成り行きませんでした。あまりにも無残な経営状態であったためなんと開業後わずか3年後の1933(昭和8)年には破産勧告が出された他、資産の競売日までが取り決められてしまいます。…後々客観的に見れば当初から無謀な計画であることは明らかでしょうが、暗雲が晴れることのない当時の電鉄側からすれば、まるで呪われているかのように不運が重なっているように思えたでしょう。そして歯車がどんどん崩れていき狂った電鉄はそのような体たらくでありながらも文字通り「光明」の差す事を願うかのように残りの二俣町~船明間の建設工事を強行していきます。
 そして二俣町までの全線開業から2年後の1935(昭和10)年、遂に電気代を払う資金も尽きた光明電鉄は料金滞納で送電を停止され、全線で運転を休止します。その後すぐに当初の予定通り競売にかけられ、落札した個人によって船明までの鉄道免許の取消などといった廃止手続きが進められた結果、1936(昭和11)年に正式に廃止となってしまいました。その後会社自体も解散し資産は競売に掛けられたそうで、田川~二俣口駅間の廃線跡地の一部は国鉄二俣線の建設時に敷設用地として転用されたなどといった形で一部痕跡を留めています。
 今回はその転用区間を天竜浜名湖線の車窓で体感すると共に、二俣町内から船明へかけて電鉄が必死の想いで遺した「最期の痕跡」を探索していきます。


転用区間と末端の廃線区間

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天竜浜名湖線の豊岡駅。かつては野部と名乗っていたこの駅の手前辺りからが光明電気鉄道の路盤の転用であるそうです。
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上野部駅。かつての神田公園前駅が置かれていた場所であるそうですが、車窓から痕跡は見出せません。
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駅を出てすぐに渡ったスラブ桁。詳細を見ていないので何とも言えませんが、これも光明電気鉄道からの転用でしょうか。(ただし、天浜線の別区間に類似のスラブ桁があるため微妙な所です。)
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伊折隧道(伊折トンネル)の掛川側坑口。上野部~天竜二俣間に2本ある隧道(これと神田トンネル)は光明電気鉄道時代のそのままの転用隧道です。電車用の断面(であるはず)になっており、ほんの少し大きい様に感じます。(そしてこの記事を読むにあたって是非この隧道の形と意匠を覚えておいてください…)
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さて、天竜二俣駅に到着しました。
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ここは国鉄時代からの二俣線の中心駅で、駅東側に機関区を併設しており、旧遠江二俣機関区の建物・扇形庫・転車台などは国の登録有形文化財や近代化産業遺産にも登録・認定されており、これらを見学するだけでも十分見応えがあると思います。
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さらにここ天竜二俣(国鉄時代は遠江二俣)から東へ伸び、北へ進路を取って飯田線の佐久間まで向かう「国鉄佐久間線」の計画もかつて存在し、これも着工されただけの未成線のままで現在に至っています。光明電気鉄道の廃線跡にその一部を利用した国鉄二俣線、さらにそこから延びようとした未成の国鉄佐久間線、そして廃止になった国鉄二俣線を引き継いで運行を続ける天竜浜名湖鉄道…この地の鉄道はまさに屍の上に屍を重ねたような摩訶不思議な歴史を持っていることが分かります。
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さて、そのような複雑な歴史の最初の1ページである光明電気鉄道跡の探索を始めます。天竜二俣駅は二俣町の中心地からは少し外れているためか光明電気鉄道時代には駅は置かれず、その付近に「阿蔵」(後に「二俣口」と改称)という駅を置いていたそうです。
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駅前から探索を始めたいのですが、二俣線時代の腕木式信号機が保存されていて、思わずそれを眺めてしまいます。
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さらに駅の向かいには保存車が(光明電気鉄道には関係無いぞ…)
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C58 389号機が保存されていました。高山線時代にはC58さよなら運転列車などを牽引し、最終的に天竜二俣機関区で生涯を終えた縁から保存されているようです。前面の煙室扉ハンドルが欠損しており間抜けな顔に見えるほか、部品の欠損が各所に見受けられますが、屋根もあってか保存状態はそこまで悪くはなさそうです。
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さらに天竜二俣駅構内にはキハ20 443とナハネ20 347が繋がれた状態で保存してあります。貴重な20系寝台客車の現存車両と、二俣線時代からの生え抜き車両であるキハ20が保存されているという中々にアツい展開ではあるのですがこれも光明電気鉄道には当然関係がありません。見どころがあり過ぎてつい本来の探索に手が付かないほど鉄分過剰な天竜二俣…本当に恐ろしい駅です。
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一通り保存車を見終えたので、本題の光明電気鉄道廃線跡を探索していきます。航空写真などから推測される路盤を地図に投影するとこのような感じ。ちょうどキハ20の置いてあるあたりから北に進路を取り、その位置に阿蔵駅を置いていたはずです。
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キハ20の位置から後ろを振り返り、廃線跡の方向を眺めます。
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うおおおおおお!
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全力で駆け寄ります。ここここれこそは…
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阿蔵駅ホーム、現存!
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90年程前にわずか数年在っただけの光明電気鉄道の痕跡が目の前に転がっていることにただただ驚愕しました。当時から1面1線であった事は容易く想像できるので完璧に残っているのかとも思いましたが、二俣寄りの一部は撤去されているようで現役時のホーム長があるわけではありませんでした。それでも改札(?)からホーム上への階段なども一緒に残っており、上に登って光明電気鉄道の乗客気分を味わえました。
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ホームから終点、二俣町方面を眺めます。路盤跡はすぐに県道40号線と交差し、そのまま奥の山へ突っ込んでいくようです。…という事はトンネルがあるはずですね…?さぁ行こう!!
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…と意気揚々飛び出しましたが、県道から先の路盤跡は完全に消滅しているため、残念なことに完全にトレスした探索は出来ません。
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これに関しては先ほどの保存蒸気の前に大きなヒントがあります。蒸気機関車の置いてある敷地内には「昭和18年12月 二俣駅前土地区割整理組合」の記念碑があるのです。国鉄二俣線が整備され、転用部分はその転用が完了したこのタイミングで、光明電気鉄道由来の路盤の痕跡は恐らく消されたのだと考えられます。

廃線跡探索

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路盤は無いものの、トンネルへの期待を持って先へ進んでいきます。トンネルが掘ってあるであろうこの小さい山?には毘沙門堂砦という名前が与えられており、徳川家康が1575(天正3)年に長篠合戦後の二俣城奪還のために築城した砦城の跡があるそうです。
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住宅街の道中で阿蔵川を渡るその名も「毘沙門橋」。川に鉄道の痕跡は何も残っていませんでしたが、
この毘沙門橋の親柱には「昭和2年」という竣工年が刻まれており、この小さな道路橋が光明電気鉄道の行く末を全て見届けていた橋であるという事が分かりました。
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橋を渡った先で毘沙門砦へぶつかります。ん?
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あったあああああ!!
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光明電気鉄道廃線区間、廃隧道の現存を確認できました。しかし坑口は完全に住宅の裏手、さすがにここに立ち入ることは出来無さそうです。
そこで迂回して二俣町方の坑口を捜索すると…
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ものの数分であっさりと発見できました。しかもこちらは坑口まで接近できそうです。
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阿蔵トンネル(二俣町側坑口)
施工年:1930(昭和5)年※この区間の開業年
材質:コンクリート(アーチ部分はコンクリートブロック)
工法:山岳工法
断面形式:不明(電化トンネルなので同時期の1号型断面に類似か?)
全長:111m(推定)
迫石・迫持:コンクリートの意匠有
要石:確認可能か不可か
笠石:
扁額類:
帯石:
ウイング(翼壁):無
インバート(仰拱):無(推定)
所属・管轄:光明電気鉄道→私有?(廃止以降)
使用終了年:1936(昭和11)年
使用終了理由:路線の廃止
経年:88年・実働6
特筆事項:内部崩壊により閉塞
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こちらはしっかり木製の柵が嵌め込まれています。
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内部の様子。奥で土砂が埋まっています。またアーチ部分と側壁部分の施工がコンクリートブロックと通常の場所打ちコンクリートに分かれており、スプリングラインがしっかり浮き出ていました。
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トンネルの上の様子。太い釘のようなものが2本等間隔で設置してあります。これは洞内に架線を通していた名残りであり、光明電気鉄道が電気鉄道であった事を物語っています。またアーチ部の材料として使用されているコンクリートブロックは、レンガ巻き立てから現在の場所打ちコンクリートへの過渡期に使用されたもので、昭和初期の鉄道トンネルにみられる特徴の一つです。
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そして坑門のこのシンプルな意匠。国鉄二俣線に転用された伊折トンネルと神田トンネルと同じ意匠であることが分かると思います。これによってその2本が光明電気鉄道時代からの転用である事もほぼ証明できました。
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頑張れば通れそう…な穴が見えるので入りたくて仕方ありませんが、民家の裏手に出てしまうのは良くないので貫通はあきらめ戻ります。
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坑口前にわずかに残る路盤跡には石ころが…これも貴重なバラストの残存ものでしょう。
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数少ないはっきりとした路盤跡です。
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阿蔵隧道の探索を済ませ、開通していた区間の最末端である二俣町駅跡へ向かいます。
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道の先から阿蔵隧道方面を振り返った様子。丁度この車庫が路盤跡と重なっています。
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毘沙門堂が見えてきました。右手の駐車場あたりが路盤跡でしょうか。
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さらにそこを過ぎると右手に路盤が広がります。
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二俣町駅へ向かって右手に折れるコーナー。芝生のあたりが路盤跡と推測できます。
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曲がった先の道路には全く光明電鉄の痕跡はありません。
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この道をしばらく道なりに進むと、二俣町生まれの画家、秋野不矩の美術館があります。このあたりに光明電鉄の終点、二俣町駅がありました。
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ここからはいよいよ幻の幻、船明までの未成区間の捜索に突入していきます。

続く