県の大半が海に突き出た半島という独特の地理から「幹線らしい幹線鉄道」が無く、また全くと言ってもいいほど山地が無い千葉県にも、明治時代に掘られたかなり歴史のある廃隧道がありました。

半世紀眠る、120年前のトンネル

 江戸の庶民に人気の参詣地であった成田山新勝寺があることから、東京と成田を結ぶ鉄道の計画は鉄道黎明期からあったものの、当初は利根川の水運事業と競合すると考えられたため実現には至りませんでした。
日本最初の鉄道開通から遅れること20年ほど経った1894(明治27)年、総武鉄道が本所(現在の両国・錦糸町)~佐倉間を開通させたのを契機に、成田への鉄道開業の機運が再び高まり、3年後の1897(明治30)年に成田鉄道が佐倉~成田間を開業させました。その7年後には総武鉄道と直通運転を開始、この時より現在の東京~成田間の構図が完成、1920(大正9)年には国有化し、それぞれが今の総武本線・成田線になりました。
その後戦後の混乱を経て高度経済成長期に入り、房総各線を総称した「気動車王国千葉」の主要路線として業績・需要を伸ばしていった結果、成田線は総武本線と共に順次複線化・電化工事の対象となりました。成田までの複線電化が完了した後に成田空港へ乗り入れを行い、以降は更に需要が伸びたため、結果的にこの複線化と電化は成功を収めたといっても良いでしょう。
そんな複線化・電化工事に合わせて各所では線形の改良が行われ、その中で唯一トンネルが存在する区間がありました。総武本線と成田線の分岐点から酒々井駅間の丘を潜る「下台隧道(下台トンネル)」です。
この区間は1968(昭和43)年に電化、1973(昭和48)年に複線化された際に、横に単線並列の形で「新下台トンネル」を新設したため、明治からおよそ70年間使われた初代トンネルは役割を終え旧線となりました。今回は、今も現在線の横に眠っているというそのトンネルを調査します。
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現在の下台トンネル(下り線・佐倉側坑口)。
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千葉方面の車窓から見た旧トンネル(酒々井方坑口)。


酒々井側坑門からのアプローチ

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印旛郡酒々井町の中心駅、酒々井駅で下車。付近には住宅街と団地が広がっています。
トンネルは総武本線と成田線の分岐点と酒々井駅の中間地点に近いところに位置しているので、線路沿いを西進していきます。
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酒々井なのか臼井なのか混ざりそうなマンホール()
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住宅街の中を線路沿いにしばらく進み、正面に小高い丘が見えて来たと思うと、線路沿いの路地が切れるあたりに「資材置き場」と書かれた意味深なフェンスがあり、その奥には単線分と思えるスペースがあります。ここが廃隧道を含めた旧線区間の始まりです。足を踏み入れると、バラストがそのまま残っていることが確認できました。
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しかしいくら進んでも坑口が見えてきません。
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その原因はこの藪。棘のある草、足に絡まるツタ状の植物、もはや低木と言っても過言ではないほどに大きく成長している草からなるブッシュが前進と視界を阻みます。
持ってきた鎌で切り開こうともがき、何とか進んでいきます。
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ひたすらもがくこと20分、…
見えた!
ついに坑口の姿を確認しました。
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下台隧道(下台トンネル)酒々井側坑口
施工年:1897(明治27)年頃←同区間の開業年
材質:赤煉瓦
工法:山岳工法
全長:約100m
断面形式:鉄作乙第4375号型断面、または近似した物

迫石・迫持:粗迫持
要石:確認不可
笠石:有(煉瓦積・意匠は無し)
扁額類:
帯石:
パラペット(胸壁
):無
ピラスター(壁柱・控壁):無
ウイング(翼壁):有(イギリス積)

インバート(仰拱):不明
所属・管轄:成田鉄道→日本国有鉄道(1920年)
使用終了年:1968(昭和38)年※1973年ではない理由は佐倉側坑口探索にて説明
使用終了理由:同区間の電化及び複線化によるトンネル付替
経年:120年・実働71年
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明治期のトンネルらしい飾り気のない簡素なレンガ作りのトンネルです。積み方に関しても、アーチ部に長手積みを、側壁部にイギリス積みを採用しており、古い山岳工法のレンガトンネルとしては一般的な構造と言えます。
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私鉄による建設であるため100%その通りとは言えませんが、トンネルの断面は時代によって決まっているため、正確に特定しようと試みたものの、トンネル下部が土砂で埋まってしまっていたため概形の確認はできませんでした。これは反対側の坑口での調査とします。
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明治トンネルに出逢えた余韻に浸りながら入洞!
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即、閉塞!
洞内は土砂によって埋め戻され、貫通は不可能な状況になっていました。洞内の変状による流入ではないことと、付近に積まれた土嚢から、意図的に塞いだものとすぐに分かりました。
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訪問時は止んで曇りになっていましたが、前夜からの雨もあってか洞内の水分は飽和状態。すぐに霧の中のようになってしまいすぐに写真が曇ってしまいましたが、風邪で痛みが続いている私の喉には最適な環境でした。(風邪なら行くなよ)
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洞内の床面にも土砂やゴミ、挙句の果てには枕木までもが投げ込まれていました。
おかげで施工基面(F.L)どころかレール基面(R.L)すら判別できません。
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塞がれた土砂の山によじ登り、ほふく前進のような体になりながら奥を覗くと、先の出口が見えました。通り抜けるにはさすがに狭すぎたものの、反対側の坑口も無事であることが確認できました。
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そしてすでにお気づきだと思いますが、このトンネルでは洞壁の白化が進行しています。これは喜ばしいことではなく、むしろ気がかりな物です。一般的にレンガ積み隧道の白化の原因は地下水による侵食であり、じわじわとトンネルが寿命に向かっていることを表しています。
また逆に黒くなっているところはかつての機関車が排出した煤煙(すす)が固まったものです。
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小さな丘であるのに地下水は水量もミネラル分も豊富なようで、まるでコンクリート鍾乳石のような物体が出来ていました。
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トンネルの知識は全くの素人レベルなので、目地痩せについては全く見ていませんでした。
写真の入り口周辺ではレンガに苔が生えています。
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土砂の流入も隧道が痛みやすくなる原因の一つと考えられていますが、やはりここも例外ではないなと感じました。
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坑口の上から撮影。レンガの美しさが際立ちます。
一部では心霊スポットなどと言われているそうですが、きっと心霊もこのレンガに魅了されてしまうだろうと思います。(は?)
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反対側の坑口に向かうため、来た道を引き返します。トンネル側から見返すと、路盤のラインがはっきりと確認できました。

佐倉側坑門からのアプローチ

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現役の線路を歩くわけにはいかないので、丘の上から反対側の坑口へと降りることにします。
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さきほどの「墨入口」交差点が起点である千葉県道77号富里酒々井線を少しだけ進みます。
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行き交う車に怪しまれ過ぎないように気を付けながら適当に轍のありそうな場所を探し、県道から外れます。
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付近を通る高圧送電線の鉄塔にたどり着ければ成功です。
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県道からここまでの轍はおそらく、この鉄塔の点検用の通路だと思われます。
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鉄塔を見上げます。鉄塔のてっぺんへ向かう点検用の昇降機?のようなものがとても格好良いです。
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鉄塔の先から谷を下ると、鉄道の用地境界柱があります。路盤がある高さまで下ってきたことが分かります。
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谷から更に下がるとそこはもう成田線の堀割であるため、誤って現役の線路に飛び出さないよう最大限の注意を払う必要があります。
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そしてここからが今回の探索最大の難関でした。終わってみれば酒々井側坑口のブッシュなんてただの芝生レベルに感じられるほどの笹による激藪に苦しめられます。写真はその笹藪の様子です。すでにぎっしり藪で覆われていますが、写真を撮れているということはまだこの写真は余裕がある場所であるということであり、更にその先はまともに前に進めない、後ろに戻るにも戻れない、というとんでもない「笹藪の壁」でした。直線距離にしてたったの150メートル弱にも関わらず、到達にまで40分もの時間を費やしてしまうほど、と言えばその厳しさが分かると思います。

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み、見ええたあああ…
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最後は藪の中を四つん這いになったり、手足を掻いて文字通り「泳いだり」しながら、なんとか佐倉側坑口に到達しました。
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下台隧道(下台トンネル)佐倉側坑口
坑門詳細は酒々井側と同じ
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早速、洞内へと入ります。酒々井側よりも歩ける長さがありそうで興奮します。
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ライトを付けずに見た洞内。120年も前に造られた明治時代のトンネルを歩けるだけで感動です。そして洞内に架線を設置した痕が見られないことから、この隧道が廃止されたのは複線化(1973)ではなく電化時(1968)であると判明しました。
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酒々井側のように埋まっていることは無く、洞内にはバラストがそのまま残っています。
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一箇所では天井部のレンガの剥離が見られました。
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こちらも空気は飽和状態。もちろん雨の影響でしょうが、酒々井側の様子も合わせて考えると、そもそも洞内の湿度は常に高い傾向にあるのだろうと推測できます。
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振り帰って1枚。ここでも霧状の空気が洞内を神秘的な空気にしています。ちなみにこのトンネルには3匹のこうもりが住んでいました。
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60メートル程度で土砂の山にぶつかりました。こちら側も白化現象が起きているため、そもそもトンネルを塞いでいるのはいずれこのトンネルが崩壊することを想定しているからなのかもしれません。
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積まれている土嚢。
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こちらも土砂の山を這い上ると、酒々井側の坑口を見ることができました。さっきまでいた場所はたったのすぐそこだと言うのに、到達にまでこれほど苦労するのに改めて閉塞隧道の難しさを感じました。
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土砂の山から照明を消して外を眺めるとこのような感じです。こちらは5~60メートルほどの距離はあると思います。
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入れる距離が長いおかげか、退避坑を確認できました。昔の保線作業員がこの狭い穴の中で通過列車をやり過ごしていたと考えると現役時代を妄想できます。
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壁面に1ヶ所掘られた場所がありました。
隧道が廃止されたあとに背面の空洞調査をした時の貫通孔だと思われます。
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苦労してやってきた隧道をしばらく味わい、また激藪を突破して帰りました。
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最後に、最初にできなかったトンネル断面の形状について、真正面から撮影した写真を利用して調べたところ、「恐らく」ですが明治時代のトンネル形状である鉄作乙第4375型制定断面と一致しました。単心円トンネルであることを強調するために赤い丸を描き加えています。

 埋め戻し以外には放置されているようで、あまり状態が良いとは言えませんが、明治期の貴重なトンネルなので、いつまでも残っていて欲しいです。

探索終了。