2年前に公開した「下野軌道 大谷川右岸~小倉町~新今市」。既存の説ではない大胆な説(?)を結構強引に説いたこの記事のケリを付けずに令和の時代まで持って行くわけにはいけない(??)という事で…今度は既存の廃線跡を調査しました。



これはすごいぞ…
情報提供のメールに掲載されていたのは、1922(大正11)年頃の今市市街を描いた絵地図でした。国鉄今市駅を手前に、奥が大谷川となるように鳥瞰した様子が克明に描かれています。
今回重要なのは地図の右下です。地図のこの位置に下野軌道本社および新今市駅がしっかりと描かれているのです。
左の「今市停車場」はもちろん今の今市駅です。かくして新今市の位置がはっきりとしました。またどうやら今市駅及び国鉄線とは何らかの形で線路が繋がっていたようにも読み取れます。
これは1947(昭和22)年の航空写真ではっきりと確認ができます。前回探索時の【考察編】で触れている通り、私はこの航空写真を確認していましたが、ここの余りの鮮明さにむしろただの日光線からの引き込み線とばかり思っていましたが、これこそが下野軌道・新今市駅跡でした。
先程くだらないおやじギャグをかました不鮮明な地図もこれではっきりとしました。
そして下野軌道の廃線跡は曲線ルートで正解という事になります。

今回の探索の最初に通った今市図書館。こここそが新今市駅跡です。
全ての探索、調査と資料提供で判明したものをまとめるとこのようになります。結局下野軌道は既存の「曲線ルート」で正解でしたが、最初に探索した「直線ルート」にも何らかの軌道跡があった事は確認できました。定説をひっくり返せなかった(?)点ではある意味負けともいえる結末でしたが、こうして新たな軌道跡を発見できたり、情報を頂けたのも示されている廃線跡に疑いを持って調べてこそ出来た事でした。廃探索にはそんな「若さ」も必要、下野軌道はそんなことを私に教えてくれました…というのは少し考えすぎでしょうか。
探索終了。
本記事(連載の場合全編)での参考文献など(敬称略):
下野軌道の再調査【曲線ルート】

前回の探索から1年以上過ぎたある日、今度はJR日光線で今市駅へやって来ました。今回はこちら側から下今市を目指してみます。天候は台風直撃の暴風雨ですが、関係なく探索していきます。
地図上の赤い部分からは路盤跡が分かるという事なのですが、区画が大きく変わった今では案の定今市周辺がどうだったのかイマイチ分からないので()、まずは路盤の分かるという場所まで向かいます。


図書館の横を進んでいきます。


路盤跡が始まるという道までやって来ました。


確かに右側に見える…?


旅館の不自然な角度とそれに合わせた形で駐車場が出来ていました。どうやらここが下野軌道の路盤跡だそうです。


駐車場の先ですぐに国道121号線(例幣使街道)の杉並木とぶつかります。


ここにはこれといった雰囲気はありません。


街道を跨いだ先の路盤は、日光街道までおおむね直進していきます。

推定される路盤とぴったりの位置に道がありました。この場合、路盤転用の路地とみて良さそうです。雰囲気に路盤跡っぽさが出てきたかもしれません。

路地はすぐ行き止まりになります。迂回した先にも路盤転用の道があるのでそちらへ移動します。
先の路地です。ものすごい路盤感を感じる緩やかなカーブが描かれていました。

今度は日光街道を横断します。パッと見では例幣使街道と瓜二つといった様相で、こちらも下野軌道に関する痕跡は見い出せませんでした。
日光街道を越えたあたりの様子。下今市まではあと半分くらいでしょうか。
再び路盤転用と思わしき道路。ここまで綺麗に道形があると確かにここで間違いなさそうです。
民家の門の先へと路盤は進んでいます。
ぐるっと迂回して…
うわぁ…
建物の1列が綺麗にカーブしている様子がハッキリと見えています。これは間違いなく廃線跡の証拠です。
間違いない…
直接辿れる道路はありませんが、建物の並びに下今市駅手前のカーブがハッキリと現れており、ここで今回の探索したルートが廃線跡であるとの確信を得ることができました。
そうこうしている間に下今市駅に到着。
宅地のカーブの様子をあらためて地図で確認します。廃線跡が顕著に現れています。
下今市駅から歩いて来た路盤跡を眺めます。これにて今市界隈の探索は終了です。
これまで探索した直線ルートと曲線ルートの2ルート。果たして、どちらが真の廃線跡なのでしょうか。
以下、頂きましたメールを紹介させて頂きます。また改めてこの場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。

推定される路盤とぴったりの位置に道がありました。この場合、路盤転用の路地とみて良さそうです。雰囲気に路盤跡っぽさが出てきたかもしれません。

路地はすぐ行き止まりになります。迂回した先にも路盤転用の道があるのでそちらへ移動します。
全身ずぶ濡れ(探索中の雨は多いのでもう慣れましたが…)です。この日は華厳の滝で日の出を迎えた後、鹿と戯れながら早朝豪雨の明智平を探索し、バスでいろは坂を下ってから日光軌道線跡を延々日光駅前まで探索していたため、一日中雨に降られていました。。

先の路地です。ものすごい路盤感を感じる緩やかなカーブが描かれていました。

路盤跡は再び杉並木に吸い込まれていきます。

今度は日光街道を横断します。パッと見では例幣使街道と瓜二つといった様相で、こちらも下野軌道に関する痕跡は見い出せませんでした。

日光街道を越えたあたりの様子。下今市まではあと半分くらいでしょうか。

再び路盤転用と思わしき道路。ここまで綺麗に道形があると確かにここで間違いなさそうです。

民家の門の先へと路盤は進んでいます。

ぐるっと迂回して…

うわぁ…
建物の1列が綺麗にカーブしている様子がハッキリと見えています。これは間違いなく廃線跡の証拠です。

間違いない…

直接辿れる道路はありませんが、建物の並びに下今市駅手前のカーブがハッキリと現れており、ここで今回の探索したルートが廃線跡であるとの確信を得ることができました。

そうこうしている間に下今市駅に到着。


下今市駅から歩いて来た路盤跡を眺めます。これにて今市界隈の探索は終了です。
これまで探索した直線ルートと曲線ルートの2ルート。果たして、どちらが真の廃線跡なのでしょうか。
新今市駅の位置が判明!
今回、読者の方から本件の探索及び下野軌道廃線跡の位置を特定する決定的な証拠となる資料を提供して頂きました。(故に今回の記事は「【再訪調査・最終決着編】」となっているのです。)
以下、頂きましたメールを紹介させて頂きます。また改めてこの場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。
“以前より、ブログを拝見させていただいております。
今日、日光市内の森病院というところで面白い資料を発見しましたので、添付致します。
廃探訪、くれぐれも怪我に注意していただき、楽しいブログの更新を楽しみにしております”
(一部略)
(一部略)

これはすごいぞ…
情報提供のメールに掲載されていたのは、1922(大正11)年頃の今市市街を描いた絵地図でした。国鉄今市駅を手前に、奥が大谷川となるように鳥瞰した様子が克明に描かれています。

今回重要なのは地図の右下です。地図のこの位置に下野軌道本社および新今市駅がしっかりと描かれているのです。



そして下野軌道の廃線跡は曲線ルートで正解という事になります。

今回の探索の最初に通った今市図書館。こここそが新今市駅跡です。

探索終了。
本記事(連載の場合全編)での参考文献など(敬称略):
・今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
本記事中(連載の場合全編)で使用した地図・航空写真:
・国土地理院 地理院地図(電子国土web)(加工は筆者によるもの)
・国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス(加工は筆者によるもの)
・国土地理院 地理院地図(電子国土web)(加工は筆者によるもの)
・国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス(加工は筆者によるもの)
写真:特筆事項が無いものは本記事中(連載の場合全編)全て筆者/同行者による撮影
執筆:三島 慶幸
執筆:三島 慶幸
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