東京から千葉の東端、銚子を結ぶ総武本線。かつては銚子の先に「本当の」終着駅が存在しました。
1897(明治30)年に東京(本所(現・錦糸町))から銚子までを全通させた総武鉄道(現・総武本線)でしたが、開業時はその全区間が単線による開業でした。沿線には市川(国府台)、津田沼、佐倉などの陸軍の拠点があったことから建設が早く進められた同線は、開業早々に日清戦争の軍事輸送で賑わいを見せ、沿線の開発も進んでいきそうな様相を呈してきたこともあり、すぐに複線化に着手されます。
そこで銚子開業の翌1898(明治31)年には、利根川の河口まで船で運ばれてきた線路工事用の砂利を銚子駅まで輸送する運搬線路が建設されました。これを1900(明治33)年に正式な貨物線としたのが、今回取り上げる新生貨物線です。建設関連の輸送がひと段落した後は銚子の主要産業である醤油工場へ大豆や麦を運び込み、工場群から少し離れていた銚子駅まで味噌や醤油を送り出すようになりました。戦後の1946(昭和21)年6月には、地方巡幸を行っていた昭和天皇が銚子を訪問した際、空襲と電力不足によって宿泊できる建物がなかったため、お召し列車を新生駅に回送してその車内で一泊するという前代未聞の取り扱い(※)があったことでも(一部では)有名です。
銚子駅からさらに東へ800m進んだところに位置していたため、長らく総武本線の“本当の”終点となっていた新生貨物駅は、トラック輸送切り替えで貨物取扱が終了する1978(昭和53)年3月末まで営業し、翌月付で廃線となりました。
※天皇陛下がお召し列車で車中泊したのはこの一件と、同じく戦後の行幸の際に姫新線林野から東京までを夜通しで強行移動した一回の計二回のみ。
銚子駅の東側の地図の様子です。見るからにそれと分かる道路が描かれています。
駅を出て東側に進み、突き当たった「本通り」を右折。銚子駅を過ぎたところの線路とぶつかる踏切にやってきました。ここを通過するのは銚子電鉄の電車だけなのですが、新生貨物線がかつて存在した兼ね合いで現在もJRが管理しており、この「妙見堂踏切」は総武本線の踏切ということになっています。銚子電鉄は600Vで電化されているため、「600Vで電化されているJR線の踏切」というとても奇妙な踏切になっています。まずはこんな形で新生貨物線の最初の痕跡(…というか存在の証拠)を確認できました。
銚子駅の側線の類はこの踏切の手前で収束しています。ちなみに貨物線の現役時はこの踏切を塞いで入替作業を行っていたそうです。結構交通量はある踏切なので、そのあたりも廃止要因の一つになったのかもしれません。(というかこれだと入替作業中は銚子電鉄も巻き添えを食らっていたような…)
踏切からさらに東を眺めます。現在は安全側線のような置かれ方をされている分岐から錆びついていないレールが分かれています。こっちが銚子電鉄の線路で、安全側線側の錆びついた行き止まりが新生駅へ続く貨物線の跡となります。
かつての航空写真を基に線路の跡を書き起こすとこのような感じになります。上の写真では分かりにくいのですが、この踏切からさらに右側(南側)にも醤油工場への引き込み線があったようです。
踏切から先の曲線道路を進んでいきます。道路に沿って砂利敷の駐車場が続いていて…
ここが路盤の跡で間違いないでしょう。
100mほど進むと突き当たり、廃線跡左手に沿っていた道路が右手に移ります。
貨物線とはあまり関係がありませんが、少し離れたところにヤマサ醤油の工場の煉瓦壁が残されていました。煉瓦を見るとそっちに行ってしまう性分なもので…
歪な交差点こそ廃線跡の証。(写真左手前の芝生から右方向の住宅へ向けてのラインが路盤跡)
先へ進みます。小さな用水路の橋を覗くと石が積まれていました。
この付近まで単線だった貨物線はヤマサの工場用の側線を分岐させ、2線が並行する形で線路が並んでいました。
ここでは左の塀の中から塀にかけてが専用線(側線)で、道路部分が貨物線の本線部分だと思います。
先を見ると茂みがあります。どうやら公園のようです。
路盤跡の道路がその公園を挟んで扇状に広がっています。
(地図を見れば最初からここが何か分かり切ったことなのですが…)
銚子駅から0.8km、終点の新生貨物駅跡に到着です。
終点のヤードが公園に転用されています。(ということはこの公園のどこかで昭和天皇が車中泊なさった、とも言えますね。)
新生駅跡は、廃止後の1982(昭和57)年3月に銚子市が買い上げて現在の「中央みどり公園」へと変貌を遂げました。具体的な当時の痕跡は残されていませんが、この公園の県道に面する側には跡地であることを示す碑が建っていました。
そのままサクッと次の探索へ向かいます。
続いて、臨港線の探索へ移ります。新生貨物駅跡から県道を渡ると、左手に妙な路地があります。
2本の路地を挟んで真ん中が駐車場(?)になっています。
そしてこの緩やかなカーブ。
間違いなくここ(車が列をなして止まっている部分)が臨港線の跡でしょう。(左右の路地は後年出来たものなのか臨港線の現役当時からあったのかは未調査)
不自然に幅の広い道路も100mと経たないほどで消えてしまいますが…
その先も廃線跡転用の路地が続きます。
その先で「銚子銀座通りココロード」を横断します。横断した先ではさらに線形が消失していますが、写真左手の建物が丁度線形に沿って建っています。(余談ですが臨港線の建設時は、戦時下の社会情勢に乗っかり数十軒の民家を一気に潰したそうです…)
一本海側の通りに迂回します。臨港線が海辺に沿うように東に折れる地点では、交差点の手前に歪な空白がありました。ちょうど踏切になっていた場所がそのまま残されているようです。
道路を挟んだ向こう側に渡り、水産加工センター側を市場方面に進みます。白線から建物(この建物は臨港線の現役当時を知ってそうな雰囲気がありますね)まで、ちょうどトラックが留めてあるこの幅が廃線跡です。
終点となる卸売市場が見えてきました。
建屋の隙間から漁港の海面が見えます。
終点・銚子漁協第一卸売市場に到着しました。新しい雰囲気のするこの市場は、元の建物が東日本大震災で甚大な被害を受けたことによって建て替えられたことによります。元の建物には臨港線が荷さばきに使ったプラットホーム跡がそのまま残っていたため、記録できなかったことが悔やまれます。
最後に改めて地図上で振り返ってみます。今回の探索と当時の記録や航空写真を見るに、臨港線はこのような状況であったことが推測されます。
銚子港まで歩いてきたので、駅に戻る前に近くの海鮮料理店で銚子で水揚げされた海産品や、その名の通りとんでもなく脂の乗ったアブラボウズの煮付けなどを堪能しました。
先ほどの「銚子銀座通りココロード」と臨港線跡が交差する地点には千葉交通のバス停「新生」があります。
銚子の産業を支えた新生貨物駅と臨港線。銚子の町自体の衰退が進みつつある現状はあまり明るいものではありませんが、観光地としての魅力は十分。銚子電鉄や犬吠埼、屛風ヶ浦の観光と合わせてお散歩してみてはいかがでしょうか。
砂利から味噌醤油に魚介類、昭和天皇まで
・総武本線(銚子~新生(貨))1897(明治30)年に東京(本所(現・錦糸町))から銚子までを全通させた総武鉄道(現・総武本線)でしたが、開業時はその全区間が単線による開業でした。沿線には市川(国府台)、津田沼、佐倉などの陸軍の拠点があったことから建設が早く進められた同線は、開業早々に日清戦争の軍事輸送で賑わいを見せ、沿線の開発も進んでいきそうな様相を呈してきたこともあり、すぐに複線化に着手されます。
そこで銚子開業の翌1898(明治31)年には、利根川の河口まで船で運ばれてきた線路工事用の砂利を銚子駅まで輸送する運搬線路が建設されました。これを1900(明治33)年に正式な貨物線としたのが、今回取り上げる新生貨物線です。建設関連の輸送がひと段落した後は銚子の主要産業である醤油工場へ大豆や麦を運び込み、工場群から少し離れていた銚子駅まで味噌や醤油を送り出すようになりました。戦後の1946(昭和21)年6月には、地方巡幸を行っていた昭和天皇が銚子を訪問した際、空襲と電力不足によって宿泊できる建物がなかったため、お召し列車を新生駅に回送してその車内で一泊するという前代未聞の取り扱い(※)があったことでも(一部では)有名です。
銚子駅からさらに東へ800m進んだところに位置していたため、長らく総武本線の“本当の”終点となっていた新生貨物駅は、トラック輸送切り替えで貨物取扱が終了する1978(昭和53)年3月末まで営業し、翌月付で廃線となりました。
※天皇陛下がお召し列車で車中泊したのはこの一件と、同じく戦後の行幸の際に姫新線林野から東京までを夜通しで強行移動した一回の計二回のみ。
・銚子臨港線(新生(貨)~銚子港)
先述の通り、総武本線の銚子駅が貨物輸送の多い産業の中心エリアから離れていたことから、新生までの貨物線の営業が開始されたのですが、これでも漁業が盛んであった銚子漁港の水産エリア(銚子漁港中央市場)からはまだ距離が残っていました。そこで新生駅から銚子港を結ぶように貨物線の延伸が計画されます。しかし、建設の計画が進まぬ間に第二次世界大戦・日中戦争に突入、銚子漁港の水揚げ品はトラック輸送とり、臨港線計画は断念されてしまいます。
そんな臨港線が再度日の目を見たのは皮肉にも同じ戦争によるものでした。太平洋戦争開戦を経て次第に日本の情勢が不利になって行く中、トラック輸送に必要な燃料や人員、トラックそのものが不足し始めます。また東京都心部を中心に食糧不足も起こり始め、少しでも多くの魚介類を効率よく届ける事を使命にとうとうこの貨物線の建設が行われます。こうして戦争末期の1944(昭和19)年10月、消費地の東京都がおよそ8割の建設費を負担し、千葉県が保有する側線という形で臨港線は開設されました。
銚子港で水揚げされた魚介類は貨車に積み込まれ、この臨港線から新生駅までまず運び出し、そこで国鉄の機関車(9600形)によって入れ替え作業を行い銚子駅まで発送、そこから両国駅まで総武本線の貨物列車で輸送し、両国駅に設けた収授線によって都電の電動貨車(乙1形?)に積み替えられ、築地市場へ輸送されました。終戦後には、占領軍によって旧日本軍の兵器処分が始まり、銚子沖が海中投棄地点に指定されたことからこの臨港線を経由して兵器や弾薬が数多く輸送され、漁船を介して銚子沖へと運ばれて行きました。
先述の通り、総武本線の銚子駅が貨物輸送の多い産業の中心エリアから離れていたことから、新生までの貨物線の営業が開始されたのですが、これでも漁業が盛んであった銚子漁港の水産エリア(銚子漁港中央市場)からはまだ距離が残っていました。そこで新生駅から銚子港を結ぶように貨物線の延伸が計画されます。しかし、建設の計画が進まぬ間に第二次世界大戦・日中戦争に突入、銚子漁港の水揚げ品はトラック輸送とり、臨港線計画は断念されてしまいます。
そんな臨港線が再度日の目を見たのは皮肉にも同じ戦争によるものでした。太平洋戦争開戦を経て次第に日本の情勢が不利になって行く中、トラック輸送に必要な燃料や人員、トラックそのものが不足し始めます。また東京都心部を中心に食糧不足も起こり始め、少しでも多くの魚介類を効率よく届ける事を使命にとうとうこの貨物線の建設が行われます。こうして戦争末期の1944(昭和19)年10月、消費地の東京都がおよそ8割の建設費を負担し、千葉県が保有する側線という形で臨港線は開設されました。
銚子港で水揚げされた魚介類は貨車に積み込まれ、この臨港線から新生駅までまず運び出し、そこで国鉄の機関車(9600形)によって入れ替え作業を行い銚子駅まで発送、そこから両国駅まで総武本線の貨物列車で輸送し、両国駅に設けた収授線によって都電の電動貨車(乙1形?)に積み替えられ、築地市場へ輸送されました。終戦後には、占領軍によって旧日本軍の兵器処分が始まり、銚子沖が海中投棄地点に指定されたことからこの臨港線を経由して兵器や弾薬が数多く輸送され、漁船を介して銚子沖へと運ばれて行きました。
当初の建設の断念から戦時の食糧輸送のための側線としての開業、終戦後の敗戦処理輸送と終始戦争に振り回され続けた臨港線でしたが、終戦の混乱期も一段落し世間が平常を取り戻して行くと、次第に鮮魚輸送がトラックに再度転換されていき、1959(昭和34)年頃から休止となり、1968(昭和43)年頃には線路が撤去され、正式に廃止されました。
今回は銚子駅を起点に、銚子漁港までを散策しこの2つの路線を探索していきます。
今回は銚子駅を起点に、銚子漁港までを散策しこの2つの路線を探索していきます。
新生貨物線
銚子駅の東側の地図の様子です。見るからにそれと分かる道路が描かれています。
探索の起点、銚子駅にやってきました。駅舎は最近建て替えられ、コンパクトで小綺麗になっています。建て替えの前は旧海軍香取航空基地(リンク先:専用線跡の探索記事)の飛行機格納庫を転用した駅舎を戦後から使い続けており、体育館のような大きな建屋が特徴でした。近年銚子駅の利用者と銚子市の人口は減り続けており、そのイメージを抱きながら通ると、きれいで使いやすい駅舎であるはずがどことなく寂しい印象を受けます。
駅を出て東側に進み、突き当たった「本通り」を右折。銚子駅を過ぎたところの線路とぶつかる踏切にやってきました。ここを通過するのは銚子電鉄の電車だけなのですが、新生貨物線がかつて存在した兼ね合いで現在もJRが管理しており、この「妙見堂踏切」は総武本線の踏切ということになっています。銚子電鉄は600Vで電化されているため、「600Vで電化されているJR線の踏切」というとても奇妙な踏切になっています。まずはこんな形で新生貨物線の最初の痕跡(…というか存在の証拠)を確認できました。
銚子駅の側線の類はこの踏切の手前で収束しています。ちなみに貨物線の現役時はこの踏切を塞いで入替作業を行っていたそうです。結構交通量はある踏切なので、そのあたりも廃止要因の一つになったのかもしれません。(というかこれだと入替作業中は銚子電鉄も巻き添えを食らっていたような…)
踏切からさらに東を眺めます。現在は安全側線のような置かれ方をされている分岐から錆びついていないレールが分かれています。こっちが銚子電鉄の線路で、安全側線側の錆びついた行き止まりが新生駅へ続く貨物線の跡となります。
かつての航空写真を基に線路の跡を書き起こすとこのような感じになります。上の写真では分かりにくいのですが、この踏切からさらに右側(南側)にも醤油工場への引き込み線があったようです。
踏切から先の曲線道路を進んでいきます。道路に沿って砂利敷の駐車場が続いていて…
ここが路盤の跡で間違いないでしょう。
振り返って1枚。大豆や醤油を満載にした貨車がこのあたりを行き交っていたことでしょう。
100mほど進むと突き当たり、廃線跡左手に沿っていた道路が右手に移ります。
貨物線とはあまり関係がありませんが、少し離れたところにヤマサ醤油の工場の煉瓦壁が残されていました。煉瓦を見るとそっちに行ってしまう性分なもので…
歪な交差点こそ廃線跡の証。(写真左手前の芝生から右方向の住宅へ向けてのラインが路盤跡)
先へ進みます。小さな用水路の橋を覗くと石が積まれていました。
この付近まで単線だった貨物線はヤマサの工場用の側線を分岐させ、2線が並行する形で線路が並んでいました。
ここでは左の塀の中から塀にかけてが専用線(側線)で、道路部分が貨物線の本線部分だと思います。
先を見ると茂みがあります。どうやら公園のようです。
路盤跡の道路がその公園を挟んで扇状に広がっています。
(地図を見れば最初からここが何か分かり切ったことなのですが…)
銚子駅から0.8km、終点の新生貨物駅跡に到着です。
終点のヤードが公園に転用されています。(ということはこの公園のどこかで昭和天皇が車中泊なさった、とも言えますね。)
新生駅跡は、廃止後の1982(昭和57)年3月に銚子市が買い上げて現在の「中央みどり公園」へと変貌を遂げました。具体的な当時の痕跡は残されていませんが、この公園の県道に面する側には跡地であることを示す碑が建っていました。
そのままサクッと次の探索へ向かいます。
銚子漁港臨港線
続いて、臨港線の探索へ移ります。新生貨物駅跡から県道を渡ると、左手に妙な路地があります。
2本の路地を挟んで真ん中が駐車場(?)になっています。
そしてこの緩やかなカーブ。
間違いなくここ(車が列をなして止まっている部分)が臨港線の跡でしょう。(左右の路地は後年出来たものなのか臨港線の現役当時からあったのかは未調査)
不自然に幅の広い道路も100mと経たないほどで消えてしまいますが…
その先も廃線跡転用の路地が続きます。
その先で「銚子銀座通りココロード」を横断します。横断した先ではさらに線形が消失していますが、写真左手の建物が丁度線形に沿って建っています。(余談ですが臨港線の建設時は、戦時下の社会情勢に乗っかり数十軒の民家を一気に潰したそうです…)
一本海側の通りに迂回します。臨港線が海辺に沿うように東に折れる地点では、交差点の手前に歪な空白がありました。ちょうど踏切になっていた場所がそのまま残されているようです。
道路を挟んだ向こう側に渡り、水産加工センター側を市場方面に進みます。白線から建物(この建物は臨港線の現役当時を知ってそうな雰囲気がありますね)まで、ちょうどトラックが留めてあるこの幅が廃線跡です。
終点となる卸売市場が見えてきました。
建屋の隙間から漁港の海面が見えます。
終点・銚子漁協第一卸売市場に到着しました。新しい雰囲気のするこの市場は、元の建物が東日本大震災で甚大な被害を受けたことによって建て替えられたことによります。元の建物には臨港線が荷さばきに使ったプラットホーム跡がそのまま残っていたため、記録できなかったことが悔やまれます。
最後に改めて地図上で振り返ってみます。今回の探索と当時の記録や航空写真を見るに、臨港線はこのような状況であったことが推測されます。
銚子港まで歩いてきたので、駅に戻る前に近くの海鮮料理店で銚子で水揚げされた海産品や、その名の通りとんでもなく脂の乗ったアブラボウズの煮付けなどを堪能しました。
先ほどの「銚子銀座通りココロード」と臨港線跡が交差する地点には千葉交通のバス停「新生」があります。
銚子の産業を支えた新生貨物駅と臨港線。銚子の町自体の衰退が進みつつある現状はあまり明るいものではありませんが、観光地としての魅力は十分。銚子電鉄や犬吠埼、屛風ヶ浦の観光と合わせてお散歩してみてはいかがでしょうか。
探索終了。
本記事(連載の場合全編)での参考文献など(敬称略):
・Googleマイマップ「千葉県の廃線・未成線」
本記事中(連載の場合全編)で使用した地図・航空写真:
・国土地理院 地理院地図(電子国土web)(加工は筆者によるもの)
・国土地理院 地理院地図(電子国土web)(加工は筆者によるもの)
写真:特筆事項が無いものは本記事中(連載の場合全編)全て筆者/同行者による撮影
執筆:三島 慶幸
執筆:三島 慶幸
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