最初の記事公開から足掛け1年3ヵ月以上も経った小坪井林用軌道の探索。今回は第四次探索でやり残した田代川の中流域の探索を行っていきます。

探索メインメニュー(全41編)
・第一次探索[小坪井・本坪井沢]
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・第二次探索[片倉ダム・笹川]
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・第三次探索[田代川支流]
[0 1 2 3 4 番外]
・第四次探索[小坪井・田代川奥地]
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・第五次探索[田代川中流域]
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・第六次探索[ヅウタ隧道]
[0 1 2 番外]

未探索区間の完結へ

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ここまで4回の訪問で我々がその謎に挑み続けている「小坪井林用軌道」。我々を含め、最近急速にこの軌道の存在や探索についてを多くの方がインターネット上に公開した最近では、趣味人の方が多く訪れるような場所に少しずつなって来ているように思えます。(「隧道支谷」に案内看板が置かれるくらいですから…)
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これはこれまでの探索で軌道跡に数多く見られた炭焼き窯の跡の写真です。小坪井林鉄のトロッコは伐採した木材と共にこれらの炭焼き窯で生産された木炭も輸送していたのではと考えていたところ、千葉県が1932(昭和7)年に発布した「炭窯構築奨励要綱」に、木炭の生産に県が補助金を交付していたことや、官民有林や演習林から炭材である原木の払い下げを受けるなどして木炭生産を奨励していたという記述がありました。トロッコの敷設目的にこの木炭の大量生産が関わっている可能性があります。
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今回はカピーナ号などではなく、安房天津側からバス林道遊歩道廃林道を経由して前回の撤退地点(上記地図参照・赤矢印の箇所)まで向かい、残りの未探索の場所へと進んでいます。
(例も例によって今回の記事も同行メンバーである「ばか者」氏との共作リレー記事(※)となっています。※したがって当記事の【その1】以降の奇数番記事は、ばか者氏のブログに投稿されます。当サイトでは偶数記事を担当、交代で執筆します。)



探索開始!
(※他サイトへ飛びます。)


おまけ:房総の林鉄は小坪井だけじゃなかった…!?

 小坪井軌道の発見が、千葉県に森林鉄道は存在しなかったというこれまでの常識を大きく覆したのですが、情報を基に改めて図書館へ向かい、各文献を見漁るとなんとこのような写真を発見しました。
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『鹿野山杉の伐採(君津市・大正初期)』
『“明治45年から大正3年まで、鹿野山の杉など、樹木の大規模な伐採が行なわれ、北麓の荻作(荻作)に鹿野山製材所ができた。写真は同山南麓のようだ。鹿野山杉は大正博覧会に出品され一等賞を獲得するなど広く銘木として知られた。”』

ー上記文章・写真:高崎 繁雄(2001.12)「目で見る木更津・君津・富津・袖ケ浦の100年」郷土出版社 より引用、2018年4月閲覧・画像は「ディープネットワークを用いた白黒写真の自動色付け」(http://hi.cs.waseda.ac.jp:8082/)システムによってカラー加工。

…房総にさらなる未知の森林軌道?!

 説明文によると写真が撮られたのは小坪井軌道のある元清澄山周辺から北西におよそ15kmに位置する鹿野山で、「明治45年から大正3年まで、鹿野山の杉など、樹木の大規模な伐採が行なわれ」たと書いており、軌道はその運搬用と推測されます。
 ちなみに鹿野山においては明治の末から浅野グループ指導のもとで、関東最古の古寺と言われている鹿野山の地元寺院「神野寺」が国から山の土地の一部を取り返したという記録があります。また神野寺が国から土地を取り戻した際には、その代金として大正元年〜大正6年の6年でおよそ2700本の杉を切ったという記録も残っており、撮影時期と合わせるとこの写真に写されているトロッコはそれに関連するものである可能性が出て来るのです。
 しかしこのトロッコが本当に神野寺の土地奪還に伴う「鹿野山大伐採」で建設されたものと仮定すると、敷設は私有林に限られるはずなのですが、現在山の北麓は国有林で南麓は県有林。私有林として条件に当てはまりそうなのは東側に当たる平田(ひらった)の谷しかないのです。それでは記述内の「写真は同山南麓のようだ」という文言とは矛盾してしまうのです。記述自体も「ようだ」とあくまで推量的な表現に留めているので、鹿野山のどの位置に存在したかは改めて調べ直す余地がありそうですが、敷設時期があまりにも古いためになによりも情報が足りません。それでもこの写真が存在するという事は房総のどこかにさらなる未知の林鉄が存在していることは間違いないはずですので、今後も机上での調査を継続して行こうと思います。